細草論壇

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(『摩訶止観』)

『弁惑観心抄』序文(昭和二十五年・堀米日淳師)

『弁惑観心抄』序文

(底本:『弁惑観心抄(平成29年改訂版)』(大日蓮出版))

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仏法を信行するものにおいて、もっとも相い戒むべきは「未得謂得、未証謂証(みとくいとく、みしょういしょう)」といふことである。すなわち、なほいまだ仏法を体達せざるに「体達した」と言ひ、未だ証悟しないに「証悟した」と言ふことである。このことは独り自ら地獄に堕つるばかりでなく、他をして邪道に入らしむる因となる。

 

法華経の会座には五千人の増上慢の比丘が席を退いて仏に成りそこねてをる。

 

とかく、仏法を学習するに「経巻・典籍を究むればその奥底に達する」と考へがちであるが、仏法は理論を至極とせずに実践生活の在り方を主目とするから教説によってのみでは淵底(えんでい)に徹することはできない。

 

ここに仏法においては師資相承の道を重要視するのである。すなわち師弟相対して信行を進めることである。このことは真に仏道に於ける要(かなめ)である。

 

しかるに稍々(やや)もすれば師を立つることを知らず、また軽んずる者があるが、すでにそのこと自体が仏法に逸脱し混乱を生じせしめるものである。多く己義を構へ、新義を主張する禍因はここに起こる。もし一度、この邪義の淵に堕すればまた出づることも難く遂に獅子身虫となり終るのである。

 

よって仏法を信行する者はかならず師弟の道を尊重し、師資相承の跡を尋ね、その正しき法流を確かめて清水を汲まねばならない。

 

世上、仏法の混乱は今日よりはなはだしきはなく、邪義いよいよさかんに行われつつあるが、これは主として師資相承の重要なることについて無知であるからである。

 

他は措いても、今日、“日蓮門下”と称する流類は、十指を屈してもなほ足らないありさまであるが、これらの流類は何によって起こったのかといへば、みな人情に固執し我慢・偏見によるところである。由来、日蓮大聖人の門流に於ては聖祖は二祖・日興上人の血脈相承したまひて大導師たるべし、と御遺命あり三祖・日目上人その跡を承継したまひて相承の次第、炳乎(へいこ)として明らかに今日にいたってをる。

 

よってこの相承を大宗としておのおの師弟の関係をまっとうすれば、おのずから正統の信行に住することができるのである。しかるに、中間において我慢の徒輩は此をかえりみず人情に固執してその結果、己義をかまへ邪義に堕したのである。

 

本書は驥尾日守の邪説を破折されたのであるが、もちろん、要山の邪義を抉剔されたのである。これによってその伝へる教義が如何に歪曲されたものであるかを知ることが出来る。要山の流すら、すでにかくのごとくである。他の“門下”の流類の邪曲、推して知るべきである。

 

本書に接する人士はかならず師弟の道を糺して正しき信行に住することができるといふことと、また外見は“聖祖門下”と言ふもいかに正邪のあることを知ることができる。

 

なほ、本書は日應上人の著述にかかり、その解説せられしところ法門の薀奥(うんのう)を開いて、縦横に、かつ正確に展(の)べられてをって本宗教義の指南書として近年における唯一の書である。今回、本布教会に於て本書を世に送らんとするは上述の意において衆を利すること絶大なるものがあると信ずるからである。

 

幸ひ聖祖の門流につながる人士は座右に本書を具へて自行化他の指針とされたい。けだしその功徳の甚大なるを信じて疑はない。

 

上梓にあたって不文を連ね、序言とするはかへって上人の御威徳を穢すものであるが、一に本書を普及して正統教義を宣布する微衷に他ならない。

 

昭和二十五年一月
日蓮正宗布教会長
堀米日淳