細草問答抄本記

「しょせん、この世に信じられるなにものもない!」との疑心暗鬼や絶望感を、正宗の師僧・法境へ熱く問い直し、<信心への入り江>としてみませんか?

『御本尊七箇の相承』(問者・開山日興上人、答者・宗祖日蓮大聖人)

(出典 『日蓮正宗聖典』p.377)

(投稿者注記:

御本尊様を開眼できるのは御法主上人様が、胸中に戒壇の大御本尊様と同じ御内証を伝持されておられるから、ということについての基本的な文証です。)

 

 

一、十界互具の事義如何。

 

示して云はく、釈迦・多宝は仏界なり、経に云はく「然我実成仏已来、乃至或説己身」云云。

上行等の四は菩薩界なり。経に云はく「一名上行」等云々。「地涌千界、乃至真浄大法」等云云。

舎利弗は声聞界なり、「華光如来」云云。

縁覚界は「其求縁覚者、乃至欲聞具足道」云云。「縁覚界所具の十界なり」云云。

大梵天王は天界なり。経に云はく「我等亦如是必当得作仏」云云。

転輪聖王は人界等なり、経に云はく「欲令衆生開仏知見」云云。「若人為仏故皆成仏道」云云。

婆稚阿修羅王は修羅界所具の仏界なり云云。

竜女・竜王等は畜生界なり。経に云はく「竜女乃至成等正覚」云云。

十羅刹女は餓鬼界なり、経に云はく「一名藍婆」云云。

提婆達多、乃至天王如来は地獄界なり。已上。


是れは一代の大綱、応仏の上の沙汰なり。此処において十界に摂するに二義あり、常の如し。

  

二、真実の十界互具は如何。

 

師の曰はく「唱へられたもふところの七字は仏界なり、唱へたてまつる我ら衆生は九界なり。これすなはち四教の因果を打ち破り、真の十界の因果を説き顕わす」云云。このとき、我ら・無作三身にして寂光土に住する実仏なり、出世の応仏は垂迹施権の権仏なり。秘すべし、秘すべし。

 

三、点を長く引き給ふ事如何。

 

師の曰はく、一閻浮提の内に妙法を流布せんとの慈悲深き流通精進の心なり、水の流れ絶へざるは日蓮の慈悲広大の義なり。

 

四、点を「王」に必ず打ち給ふ心如何。

 

師の曰はく、法華は諸経中王のゆへに、大王のゆへに、小王のときはこの点なし。大王は経の眷属のゆへに、また守護なる間、点を打ち加へ給ふなり。

 

五、梵字は不動・愛染に限る事、何の意有りて遊ばさるるや。

 

師の曰はく、西天より梵字を三蔵等、まさに来たして和・漢の二字と成す、目前なる者なり。我が仏法もまたまたかくの如し。遠霑の翻訳、仮字を梵漢に通ず可き先兆なり。

 

六、序・正・流通の中には何ぞや。

 

師の曰はく、流通分の大曼荼羅なり、流通とは末法なり。

「久遠本果の名字の妙法蓮華経の法水、末代の我らが耳に流入すべし」といふ三仏(釈迦・多宝・分身)の御約束なり、在世は正宗が面と成り、滅後は流通が面と成るなり、経文解釈分明なり。

 

七、日蓮と御判を置き給ふ事如何。(三世印判日蓮体具)

 

師の曰はく、首題も釈迦・多宝も、上行・無辺行等も、普賢・文殊等も舎利弗・迦葉等も、梵・釈・四天・日月等も、鬼子母神・十羅刹女等も、天照・八幡等も、悉く日蓮なりと申す心なり。これに付き、受持法華本門の四部の衆を、ことごとく聖人の化身と思うべきか。

師の曰はく、法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり。法界即日蓮、日蓮即法界なり。
当位即妙不改、無作本仏の即身成仏の当体蓮花、因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞なり。本尊書写の事、予が顕はしたてまつるがごとくなるべし。もし「日蓮御判」と書かざれば天神・地神もよも用ひたまはざらん。上行・無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には、若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号とこれを書くべし。経中の明文等、心に任すべきか。

 

一、仏滅度後と書く可しという事如何。

 

師の曰はく、仏滅度後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内に未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるるまま、書写し奉るこそ御本尊書写にてあらめ、これを略し奉ること、大僻見不相伝の至極なり。

 

一、日蓮在御判と嫡嫡代々と書くべしと、の給ふ事如何。

 

師の曰はく、深秘なり、「代代の聖人ことごとく日蓮なり」と申す意(こころ)なり。

 

一、明星直見の本尊のこと如何。

 

師の曰はく、「末代の凡夫幼稚のために何物をもって本尊とすべき」と、虚空蔵に御祈請ありしとき、古僧示して言はく、

「汝等が身をもって本尊となすべし、明星の池を見給へ」と・のたまへばすなはち、かの池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なりと云云。

このことを横川の俊範法印に御物語ありしとき、法印讃嘆して言はく、善き哉・善き哉、釈迦・古僧に値いたてまつりて塔中に直授せるなり、貴し貴し、と讃められたり。

 

日興は浪の上にゆられて見へたまひつるところの本尊の、御形(おんすがた)なりしをば能く能く似せたてまつるなり。よって本尊書写の事、一向に日興これを書写したてまつるべきこと勿論なるのみ。

 

弘安五(壬午)十月十日
日蓮 在判

 

右、この七箇の大事は唯授一人の秘伝なり、聊爾(りょうじ)に口外すべからず云云。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無日蓮大聖人。

御判形の貌、一閻浮提のなりにて御座すなり。梵字は天竺、真は漢土、草は日本、三国相応の表事なり。

 

一、日蓮の蓮字に点を一つ打ちたもふ事は

 

天目が「点が一つ過ぎ候なり」と申しつる間、また一点を打ち給ひて後、のたまひけるは、予が法門に墨子(ふすべ)を一つ申し出だすべき者なり、さてこそ天目とはつけたれと云云。