細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

宗祖大聖人御書『当体義抄』入文部、日寛上人『当体義抄文段』:第二段「釈名の下(もとひ)」

 

 宗祖大聖人『当体義抄』入文部

 (文永十年・御寿五十二歳)

(底本:大石寺版『平成新編・日蓮大聖人御書』p.692)

問ふ、妙法蓮華経とはその体・何物ぞや。答ふ、十界の依・正、すなはち妙法蓮華の当体なり

 

問ふ、もししからば我らがごとき一切衆生も妙法の全体なりといはるるべきか。

答ふ、もちろんなり。

経にいはく「所謂諸法・乃至本末究竟等」云云。

妙楽大師いはく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界はは必ず身土」云云。

天台いはく「十如・十界・三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云。

(投稿者注記:「今経」とは「妙法蓮華経」の意。)

南岳大師いはく「いかなるをか名づけて妙法蓮華経と為すや。答ふ、妙とは衆生・妙なるがゆへに。法とはすなはちこれ衆生・法なるがゆへに」云云。 

また天台・釈していはく「衆生は法にして妙なり」云云。

 

問ふ、一切衆生の当体、即・妙法の全体ならば、地獄・乃至九界の業因・業果も、皆なこれ妙法の体なるや

答ふ、法性の妙理に染・浄の二法あり。染法は薫じて迷ひとなり、浄法は薫じて悟りとなる。悟りはすなはち仏界なり、迷ひはすなはち衆生なり。この迷・悟の二法、二つなりといへども、しかも法性真如の一理なり。

 

たとへば水精の玉の日輪に向かへば火を取り、月輪に向かへば水を取る、玉の体・一なれども縁にしたがって・その功(く)、同じからざるがごとし。

 

真如の妙理もまたまたかくのごとし。一妙真如の理(ことはり)なりといへども、悪縁に遇(あ)へば迷ひとなり、善縁に遇(あ)えば悟りとなる。悟りはすなはち法性なり、迷ひはすなはち無明(むみょう)なり。

 

たとへば、人・夢に種々の善悪の業を見て、夢・醒めて後にこれを思へば、我が一心に見る所の夢なるがごとし。

 

一心は法性真如の一理なり。夢の善悪は迷悟の無明・法性なり。かくのごとく、こころ得れば、悪迷の無明を捨てて、善悟の法性を本(もと)となすべきなり。

 

 

 

日寛上人『当体義抄文段』:釈名の下(もとひ)

(京保六年二月十六日)

(底本:大石寺版『日寛上人御書文段』 p.612) 

一、釈名の下(もとひ)。
「当体蓮華」にすなはち二義あり。
一には、十界三千の妙法の当体を直(ただ)ちに「蓮華」と名づく、ゆへに「当体蓮華」といふなり。この義は入文の相に分明なり。


二には、一切衆生の胸間の八葉を「蓮華」と名づけ、これを「当体蓮華」といふ。

ゆへに伝教大師の『牛頭決(ごずけつ)』-72にいはく
「当体蓮華とは、一切衆生の胸間に八葉の蓮華あり。これを名づけて当体蓮華と為す」等云云。


しかるに、この胸間の八葉の蓮華は、男子は仰ぎ、女人は伏するなり。しかれども、女人あって、この妙法を信受すれば、彼の胸間の八葉はすなはち仰ぎ、まったく男子に同じきなり。ゆへに当流の女人は、外面(げめん)はこれ女人なりといへども、内心はすなわちこれ男子なり。

 

『涅槃経』の第九巻-40に
「仏性を見る者はこれ女人なりといへども、また男子と名づく」と説きたもうはこれなり。

 

若し権経権門の女人は、これ女人なりといへども、またこれ夜叉なり。
ゆへに『華厳経』にいはく
「外面は菩薩に似て、内心は夜叉のごとし」等云云。

 

問ふ、胸間の蓮華、その色は如何。
答ふ、これ白蓮華なり。『大日経』の第一-19に、胸間の蓮華を説く文にいはく
「内心は妙白蓮にして、八葉なれば正(まさ)しく円満なり」等云云。

 

録外の23-3にいはく
「当体の蓮華とは、一切衆生の胸の内に八分の肉団あり。白くして清し。およそ生を受けたる者は、みなことごとくこの八葉の蓮華、胸の内に収めたり」(新定 p.213)等云云。

 

また『法華伝』の第六-13にいはく
「比丘尼・妙法、俗姓は李氏。年・ようやく長大にして、心に出家をよろこぶ。年・十二のとき、その姉、法華経を教ゆ。日に八紙を誦(ず)し、月余にして一部を誦しおはる。人、その徳を美(よみ)して、名づけて“妙法”といふ。願を立てて諷誦(ふうじゅ)すること八千返、臨終のとき、座に三茎の白蓮を生ず。池に生ずるときのごとくして、七日にしても萎落(いらく)せず」等云云。

 

また『釈書』の11-115にいはく
「釈氏・蓮長、天性精勤にして妙経を持(たも)ち、唇舌迅疾(しんぜつじんしつ)なり一月に千部を終ゆ。臨終のとき、手に不時(ふじ)の蓮華、一茎を把(と)る。鮮白薫烈(せんびゃくくんれつ)なり。傍(かたはら)の人、問ふていはく『この華、いずくより得たるや』と。答ふ『これすなわち妙法蓮華なり』と。言ひおはって寂す。手中の蓮華、忽然(こつねん)として見へず」等云云。

 

並びに妙経読誦の功用(くゆう)に由(よ)り、胸間の白蓮、顕現するなり。像法すらすでに爾(しか)なり。今、唱題を励めば、あに顕現せざらんや。ゆへに知んぬ、胸間の蓮華はまさにこれ白蓮なり。

 

いわんや、また末法下種の三宝は、この胸間の白蓮華の顕現したまふなり。

およそ中央の本尊は白蓮華なり。
『十如是抄』にいはく
「妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは、何様(いかよう)なる体にておはしますぞ、と尋ね出して見れば、我が心性の、八葉の白蓮華にてありける事なり。されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なり」(新編 p.105)等云云。

 

蓮祖は白蓮華なり、とは『籤』の7-54にいはく
「有る人いはく、白蓮は日にしたがって開き回(めぐ)り、青蓮は月にしたがって開き回(めぐ)る。ゆへに諸天の中に、華の開・合を用ひて昼・夜を表するなり」等云云。およそ「日蓮」の二字、あに「日にしたがって開き回る蓮華」にあらずや。若ししかれば(蓮祖は)白蓮なること、これを疑ふべからず。いわんや蓮祖の当体、まったくこれ中央の本尊、すなわちこれ白蓮華なり、云云。

 

興師もまた白蓮華とは、興師・すでに「白蓮阿闍梨」と名づく。名詮自性(みょうせんじしょう)のゆへに、名は必ず体を顕わす徳あり。ゆへに「白蓮阿闍梨」の御名は、まさにこれ興師の白蓮なるがゆへなり。

 

ゆへに知んぬ、末法下種の三宝は、すなはちこれ我等衆生の胸間の八葉の白蓮華なり。

 

また、大師の王舎城観に准ずるに、今、この末法下種の三宝の住処たる富士山は、またこれ我等衆生の、胸間の八葉の白蓮華なり。ゆへに「大日蓮華山」と名づくるなり。この名は『神道深秘』-26に出づ。

『神社考』の4-20に、『富山縁起』を引いていはく
「孝安天皇の九十二年六月、富士山・涌出す。郡名を取って富士山といふ。形・蓮華に似て絶頂に八葉あり」云云。

 

古徳の富山の詩にいはく
「根は三州に跨がりて烟樹(えんじゅ)老ひ、嶺は八葉に分かれて雪花重なる」云云。「雪花」はあに白色にあらずや。ゆえに知んぬ、「大日蓮華山」とはすなはちこれ八葉の白蓮華なり。

 

まさに知るべし、蓮祖はこれ本果妙の仏界にして、興師はこれ本因妙の九界なり。富士山はすなはち、これ本国土妙なり。

 

若ししからば、種家の本因・本果・本国土、三妙合論の事の一念三千とは、すなわちこれ中央の本門の本尊なり。しかればすなはち依・正・因果、ことごとくこれ我ら衆生の心性の八葉の白蓮華にして、本門の本尊なり。

 

ゆへにこの本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱ふる人は、すなはちこれ本門寿量の当体蓮華仏なり。

 

外の23-14、『日女御前御返事』にいはく
「この御本尊、まったく余処(よそ)に求むる事なかれ、ただ我等衆生、法華経を持(たも)ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(新編 p.1388)と。南無妙法蓮華経等云云。