細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『臨終用心抄(3/3)』(日寛上人御指南)

(底本:山喜房仏書林版『富士宗学要集』第三巻 p.266)

 

 

一、臨終の相に依って後の生処を知ること。


『金山』2-末-35に諸文を引く、往ひて見よ。


御書32-11にいはく
「法華経にいはく、『如是相・乃至・究竟等』云云。

『大論』にいはく『臨終に黒色なるは地獄に堕つ』等云云。
『守護経』にいはく『地獄に堕つるに十五の相あり、餓鬼に七種の相あり、畜生に五種の相あり』等云云。
天台大師『摩訶止観』にいはく『身の黒色をば地獄の陰に譬ふ』等云云。
乃至、天台のいはく『白は天に譬ふ』等云云、

『大論』にいはく『赤白端正なる者は天上を得る』と云云。

天台大師・御臨終の記にいはく『色白し』と云云。

玄奘三蔵・御臨終の記にいはく『色白し』と云云。

一代聖教を定むる名目にいはく『黒業は六道にとどまり、白業は四聖となる』」云云。

 

一、他宗謗法の行者はたとひ善相ありとも地獄に堕つべきこと。

 

『中正論』8-60にいはく
「たとひ正念称名にして死すとも法華謗法の大罪あるゆへに阿鼻獄に入ること疑ひなし」と云云。


私にいはく、「禅宗の三階は現に声を失ひて死す、真言の善無畏は皮黒く、浄土の善導は顛倒狂乱す、他宗の祖師・すでにこれかくのごとし、末弟の輩・その義知るべし、師はこれ針のごとく弟子・檀那は糸のごとし、その人・命終して阿鼻獄に入るとはこれなり」云云。

 

一、法華本門の行者は不善相なれども成仏疑ひなきこと。

 

『安心録』16、
「問ふ、もし臨終のとき、あるひは重病により正念を失却し、唱題すること能はず、空しく死亡せば悪趣に堕ちんや。
答ふ、もし一(ひと)たび妙法を信じて謗法せざる者は無量億劫にも悪趣に堕ちず。

『涅槃経』四依品の会疏6-12にいはく『我れ涅槃の後、もし
かくのごとき大乗微妙の経典を聞くことを得て、信敬の心を生ずることあらん、当に知るべし、これらは未来世百千億劫におひて悪道に堕せず』」已上。


『涅槃経』を聞法する功にしてなほしかるなり、いはんや法華をや。経力甚深なることを仰ぎ信敬すべし。いはんや『提婆品』にいはく「浄心に信敬し疑惑を生ぜざる者は地獄・餓鬼・畜生に堕せずして、十方の仏前に生まれん」云云。

信敬といふは五種の中には「受持」の行に当たる、いはんや行を加へて妙法を唱へんをや。


御書11-初にいはく
「一期生の中にただ一返の口唱すら悪道に堕ちず、深く信受すべし」云云。

 

私にいはく『神力品』にいはく「我が滅度の後におひて、まさにこの経を受持すべし。この人・仏道におひて決定して疑ひあること無し」云云。

 

一、臨終に唱題する者は必ず成仏すること。

 

まず平生に心に懸け造次顛沛にも最も唱題すべし。また三宝に祈ること肝要なり。

 

また善知識の教へを得て兼ねて死期を知り、「臨終正念・証大菩提」と祈るべきなり。

 

多年の行功により三宝の加護により必ず臨終正念するなり、臨終正念にして妙法を口唱すれば決定無有疑なり。

 

一、伝教大師・一大事の秘書『修善寺決』4-丁にいはく


「臨終の一念三千とは、人・臨終に断末魔の苦、速やかに来て身体に迫るとき、心神昏昧にして是事非事を弁へず、もし臨終の時、出離の要法を修せずんば平生の習学、何の詮要か有らん。ゆへにこの位にて法具の一心三観を修すべし。

すなはち、妙法蓮華経これなり。臨終のとき、『南無妙法蓮華経』と唱へば妙法の功に由りて速やかに菩提を成じ、生死の身を受けざらしむ、これ爾し仏力・法力・信力によるところなり」と。

 

一、『文句』4-72にいはく


「那先経にいはく、問ふ、人・死に臨み『南無仏』と称すれば泥梨を免るることを得るとはいかなるや。答ふ、人・一石を持して水上に置けば石の必ず没すること疑ひなし、もし能く百の石子を持ちても船上に置けば必ず没せざるがごとし、もし直爾に死すれば必ず泥梨に入る、これ石を水に置くがごとし、もし死に臨みて南無仏と称すれば、仏力のゆへに泥梨に入らざらしむ。船力のゆへに石をして没せざらしむるがごとし」と云云。

「種・脱」云云。

 

御書5-29にいはく
「提婆達多は世尊の御身より血を出だせしかども、臨終のときには『南無』と唱へたりき、『仏』とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりし」云云。

 

また御書32-12にいはく
「また『法華経の題目を臨終のとき、二返唱へたもふ』云云、法華経第七にいはく『於我滅度後◯無有疑』云云、妄語の経々すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御力に責められて実語となり候、いはんや法華経の題目をや。

白粉(おしろひ)の力には漆を変じて雪のごとく白くなす、須弥山に近づく衆鳥は皆な金色なり、法華経の題目を持つ人は一生・乃至・過去遠々劫の黒業の漆変じて白業の大善となる。いはんや無始の善根、皆な変じて金色となり候。

しかるに故・聖霊は最期・臨終に『南無妙法蓮華経』と唱へさせたまひしかば一生・乃至・無始の悪業変じて仏種となりたもふ。
煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門はこれなり」云云。

この文「法力」なり。

 

『大論』24-14にいはく、
「臨終の一念は百年の行功に勝る。心力決定して猛利なること火のごとく毒のごとし、少なりといへども大事を成ず。人の陣に入りて身命を惜しまざるを名づけて健となすがごとし」と云云。臨終には信力猛利のゆへに仏力・法力、ともにいよいよ顕にして即身成仏するなり。

 

御書22-14にいはく
「たとへば好き火打と石の角とほくちと、この三つ寄り合ひて火を用ゆるがごとし」云云。

 

また御書28-3にいはく
「この道に入りぬる人にも上・中・下の三根はあれども同じく一生の内に顕はるるなり。上根の人は聞くところにて覚り極まって顕す、中根の人はもしは一日・もしは一月・もしは一年に顕すなり。

下根の人は、のびゆくところなくてつまりぬれば、一生の内に限りたることなれば臨終のときに至って諸の見へつる夢も覚めてうつつになりぬるがごとく、ただの今まで見ゆるところの生死妄想の邪(ひ)が思ひ、ひがめの理(ことは)りはあと形もなくなりて本覚のうつつの覚りにかへりて法界を見れば皆な寂光の極楽にて、日来(ひごろ)賤(いや)しと思ひし我がこの身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり」と。

 

御書32-22にいはく
「日蓮が法門だに僻事(ひがごと)に候はば臨終には正念に住し候はじ」文。

 

御書13-28にいはく
「我が弟子の中にも信心薄く浅き者は、臨終のとき阿鼻の相を現ずべし、そのとき我を恨むべからず」等云云。

 

一、御書11-47にいはく

「末法は本未有善なり」云云。

 

一、御書25-4にいはく

「末法は在世の下種、一人もなき事」云云。

 

外24『教行証御書』にいはく
「今末法に入り、在世結縁の者一人も無く権実の二機・ことごとく失せり。このときは濁世たる当世の逆謗の二人に初めて本門寿量品の肝心・南無妙法蓮華経をもって下種とす、『是好良薬・今留在此』はこれなり」文。

 

私にいはく
「一には在世を去ること遠きがゆへに。
二には現に濁悪の衆生なるゆへに。
三には仏かねて本化をもって下種の導師と定むるゆへに。
四には威音王仏の像法と釈尊の末法と同じきゆへに」文・已上。

 

臨終用心抄・終んぬ。

 

寛延元年・戌亥・辰暦八月二十七日在山の砌り、書写し奉り畢んぬ。


大日蓮華山門流優婆塞
了哲 日心