細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

宗祖大聖人御書『新池御書(1/4)』(弘安三年二月 御寿・五十九歳)

(底本:『平成新編・日蓮大聖人御書』(大日蓮出版) p.1456)

『新池御書』(弘安三年二月 御寿・五十九歳)
うれしきかな末法流布に生まれあへる我等、かなしきかな今度この経を信ぜざる人々。

 

そもそも人界に生を受くるもの、誰か無常を免れん。さあらんに取っては何ぞ後世のつと(勤)めをいたさざらんや。つらつら世間の体(てい)を観ずれば、人・皆な口にはこの経を信じ、手には経巻をにぎるといへども、経の心にそむく間、悪道を免れがたし

 

譬えば人に皆な五臓あり、一臓も損ずればその臓より病・出来して余の臓を破り、終(つひ)には命をも失ふがごとし。

 

ここを以て伝教大師は「法華経を讃すといへども、還りて法華の心を死(ころ)す」等云云。文の心は“法華経を持ち読みたてまつり讃むれども、法華の心に背きぬれば、還って釈尊・十方の諸仏を殺すに成りぬ”と申す意なり。

 

たとひ世間の悪業・衆罪は須弥のごとくなれども、この経にあひたてまつりぬれば、衆罪は霜露のごとくに法華経の日輪に値ひたてまつりて消ゆるべし。しかれども、この経の十四誹謗の中に、一も二もをか(犯)しぬればその罪消えがたし

 

ゆえんはいかん。一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、いかでか一仏を殺す罪に及ばんや。法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失ふ罪なり。このをきて(掟)に背くを謗法の者とは申すなり。

 

地獄おそるべし、炎を以て家とす。餓鬼悲しむべし、飢渇(けかち)にうへて子を食らふ。修羅は闘諍(とうじょう)なり。畜生は残害とて互いに殺しあふ。紅蓮地獄と申すは、くれなゐ(紅)のはちす(蓮)とよむ。そのゆへは余りに寒きにつ(詰)められてこご(屈)む間、せなか(背中)のわ(割)れて肉の出(いで)たるが紅の蓮に似たるなり。いはんや大紅蓮をや。

 

かかる悪所にゆけば、王位・将軍も物ならず、獄卒の呵責にあ(値)へる姿は猿をまは(回)すに異ならず。このときはいかでか名聞名利・我慢偏執あるべきや。

 


思しめすべし、法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行くべからず。いかにいはんや、十度・二十度、ないし五年・十年・一期生の間、供養せる功徳をば、仏の智慧にても知りがたし。

 

この経の行者を一度・供養する功徳は、釈迦仏をただちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝れたりと仏は説かせたまひて候。この経にあ(値)ひたてまつりぬれば悦び身に余り、左右の眼に涙浮かびて釈尊の御恩報じ尽くしがたし。かやうにこの山まで度々の御供養は、法華経ならびに釈迦尊の御恩を報じたもふに成るべく候。いよいよはげませたもふべし、懈(をこた)ることなかれ。

 

皆な人の、この経を信じ始むるときは信心ある様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまでいよいよ信心をいたすべし。さなくしては後悔やあらんずらん。

 

 

たとへば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みをはこ(運)びて、今一日に成りて歩みをさ(差)しを(置)きては、いかんとして都の月をば詠(なが)め候べき。

 

いかにとしても、この経の心をしれる僧に近づき、いよいよ法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。