細草問答抄本記

「しょせん、この世に信じられるなにものもない!」との疑心暗鬼や絶望感を、正宗の師僧・法境へ熱く問い直し、<信心への入り江>としてみませんか?

宗祖『新池御書(3/4)』(弘安三年二月 御寿五十九歳)

(底本:『平成新編・日蓮大聖人御書』(大日蓮出版) p.1458)

釈尊は一切の諸仏・一切の善神・人天大会・一切衆生の父なり、主なり、師なり。この釈尊を殺したらんに、いかでか諸天・善神等、うれしく思(おぼ)しめすべき。今、この国の一切の諸人は皆な釈尊の御敵なり。在家の俗男・俗女等よりも邪智の心の法師ばらはことの外の御敵なり。

 

智慧にても正智あり邪智あり。智慧ありともその邪義にはしたがふべからず。貴僧・高僧にはよるべからず。賤(いや)しき者なりとも、この経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし。これ経文なり。

 

されば伝教大師は

「無智破戒の男女等もこの経を信ぜん者は、小乗二百五十戒の僧の上の座席に居(す)へよ、末座にすべからず。いはんや大乗の経の僧をや」

とあそばされたり。

 

今、生身の如来のごとくみえたる極楽寺の良寛房よりも、

「この経を信じたる男女は座席を高く居(す)へよ」

とこそ候へ。かの二百五十戒の良寛房も、日蓮に会いぬれば腹をたて眼をいからす。これただごとにはあらず。智者の身に魔の入り代はればなり。たとへば本性よき人なれども、酒に酔ひぬれば悪しき心・出来し、人のためにあしきがごとし。

 

仏は法華以前の迦葉・舎利弗・目連等をば

「これを供養せん者は三悪道に堕つべし。彼らが心は犬・野干の心には劣れり」

と説きたまひて候なり。かの四大声聞等は、二百五十戒を持つことは金剛のごとし。三千の威儀・具足することは十五夜の月のごとくなりしかども、法華経を持たざるときはかくのごとく仰せられたり。いかにいはんや、それに劣れる今時の者どもをや。

 

建長寺・円覚寺の僧どもの作法・戒文を破ること、大山の頽(くず)れたるがごとく、威儀の放埒なることは猿に似たり。これを供養して後世を助からんと思ふは、はかなしはかなし。

 

守護の善神、この国を捨つること疑ひあることなし。昔、釈尊の御前にして諸天・善神・声聞、異口同音に誓ひをたてさせたまひて、

もし法華経の御敵の国あらば、

あるひは「六月に霜・霰(しも・あられ)となりて国を飢饉せさせん」と申し、

あるひは「小虫となりて五穀をは(食)み失はん」と申し、

あるひは「大水となりて田園を流さん」と申し、

あるひは「大風となりて人民を吹き殺さん」と申し、

あるひは「悪鬼となりて悩まさん」と面々に申させたまひき。

 

今の八幡大菩薩もその座におはせしなり。いかでか霊山の起請の破るるをおそれたまはざらん。起請を破らせたまはば無間地獄は疑ひなき者なり。恐れたもふべし恐れたもふべし。

 

今まではまさしく仏の御使ひ出世してこの経を弘めず、国主もあながちに御敵にはならせたまはず、ただいづれも「(法華経は)貴(たっと)し」とのみ思ふばかりなり。

 

今・某(それがし=大聖人ご自身をさす)、仏の御使ひとしてこの経を弘むるに依りて、上一人より下万民にいたるまで皆な謗法と成りおはんぬ。今まではこの国の者ども法華経の御敵にはな(成)さじと、一子のあやにく(生憎)のごとく捨てかねておはせども、霊山の起請のおそろしさに社(ヤシロ)を焼き払ひて天に上らせたまひぬ。

 

さはあれども身命を惜しまぬ法華経の行者あればその頭(こうべ)には住むべし。

 

天照大神・八幡大菩薩、天に上らせたまはば、その余の諸神いかでか社に留まるべき。たとひ捨てじと思しめすとも、霊山のやくそく(約束)のままに某(それがし)の呵責したてまつらば、一日もやはかおはすべき。

 

たとへば盗人の候に、知れぬときはかしこに・ここにと住み候へども、能く案内・知りたる者の、

「これこそ盗人よ」

と詈(どめ)けば、存外に栖(すみか)を去るがごとく、某(それがし)にささへられて社をば捨てたもふ。しかるにこの国、思ひの外に悪鬼神の住家となれり。哀れなり哀れなり。