細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『悪口と折伏』(昭和六年六月・堀米泰栄師)

(底本:『日淳上人全集・上巻』 p.16)
罵詈・讒謗(めりざんぼう)と折伏とは混同されやすいが、自ら正法を持ち正行を行ずるものが他の過悪を責むるは折伏である。自ら正法を持つことなく、また正行を行ずることもなくして、かえって他を言ふは悪口罵詈である。

 

一つは内に正あって、他の邪に迷ふを見て慈悲の念の止む能わず、彼がために悪を除かんとする親の情により一つは自らの及ばざるに怨嫉を基ひとして卑劣なる情によって起こる。この両者は結果においては区別しがたいが、その原因においては千里の逕庭がある。

 

すなわち、正法受持の自覚があると否と、而して受持するところははたして正法なると否とによるのである。

 

他の過悪を挙ぐることは容易い、その非を鳴らすことも容易である。けれども自ら正法を受持し、正見に住することは至難である

 

今の世、悪口罵詈・讒謗毀訾(ざんぼうきし)は多いが真の折伏は少ない。悪口罵詈はいかに巧みなりとも一顧だにも価ひしないが、折伏はいかなりとも耳を傾けなければならぬ

 

日蓮大聖人いはく「体曲がれば影曲がる」と。体とは法であり、影とは行人である。されば行人の曲がれるは法の曲がれるによる。影を矯(ため)んとするならば、法を糺さなければならぬ。法・もし正しくして影が曲がればそれは行人の罪であって法の罪ではない

 

五濁爛漫の当世、法をさしをいて一々の言行を批判すれば悪口に堕する。ただ受持する法の邪・正を決するが折伏である。

 

近時、自ら正法に住せずして巧みに他を言ふものがある。いたずらに奇言を弄して衆目を惑わさんとするもののごとくであるが、聞くところ見るところによればことごとくいわゆる悪口に過ぎない。

 

自らの智解の及ばざるを知らず、浅見をもって他を論ずるがごとくである。衆人・先づ悪口か折伏かを批判して然るのちにその言を聴かんことが肝要である。