細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『危険な純粋さ』:8「原理主義の十戒」:第一条・根本的な前提=<善き国家>・<善き社会>実現への狂信

(底本:『危険な純粋さ』1996年12月、ベルナール=アンリ・レヴィ・著、立花英裕・訳 p.105-108)

 

 

危険な純粋さとは何か。

 その歴史観がハッキリと定まっていない現時点では思索に頼るしかない。

 

正確に言って、<純粋さへの希求>の<純粋さ>とは何か。どんなときに希求されているのか。

 

これまで私は、<純粋さへの希求>と呼んできたが、希求されている<純粋さ>の内容、この希求の結果、人がどのように行動を実行に移していくかについてはまな板の上に上げないできた。

 

その代わり、具体的な事例を書き列ね、さまざまな人物や、<純粋さ>による害毒の“症例”をコレクションしてみたが、そこに共通している項目が何であるのか、<純粋さ>の支柱になっている統一性を、読者にじっくり考えてもらうことを避けてきた。

 

つまり、これまで述べてきたことは順不同の断片、素材のコレクションでしかなかった。

 

多面的ではあるが、これまで述べてきたことには<純粋さへの希求>の共通項として当てはまらないように感じられる言葉が見え隠れしている。確かに空疎な部分、恣意的な部分、論理破綻、自語相違もあるかもしれない。

 

このコレクションの全体を再び整理してみたい。このコレクションをまな板の上に載せて、捌(さば)いていくのだ。

 

このコレクションの巨大な塊の元となっている原資料は膨大な量があるが、それを細大もらさずチェックし直して、整理し直し、共通項を抽出しなければならない。今度は論理的に説得力のある<純粋さへの希求>の特徴を書き列ねてみるのだ。

 

サン・ジュストの言葉、サヴォナローラの言葉、タスリマ・ナスリンを呪詛するムッラーたちの破門宣告、サバタイ・ツヴィの呪詛、忘却の淵に沈みかけたカタリ派のつぶやき、それとよく似たポル・ポト革命のつぶやき、ナチスの叫声、イスラムの怒号…。

 

要するに、一見、種々雑多に見える言葉のざわめきを手かがりとして、ある一語、それも整理されていないときには気がつかない、どの言葉にも潜在的に共通している一語を練り上げるのだ。

 

その目的?抽象的といえば抽象的ではあるが、どの<純粋さへの希求>に対しても、実際に適用できるモデルである。

 

ある国家、ある文化、ある歴史の一断面、ある人間、ある書物について、それらが【原理主義】、つまり<狂信的な純粋さ>から着想を得ているか、判断基準を明らかにし、何をとっかかりにして判定できるのかを知ることこそ、この節の文章の目的である。

 

(1)原理主義信条の第一番目の前提

=国家・社会といったコミュニティー、付け加えるならば<善き国家>・<善き社会>への信仰。

 

<善き国家>・<善き社会>への信仰。

 

<善き国家・社会>への信仰は、とりたてて挙げるほどでもないようにも見えるが、決定的な共通項である。

 

なぜならば、それを真に受けとらない人々もいるからだ。人類が、調和された世界の中に身をおきつづけることはできないと考える人々──とりわけ、民主主義の政体がごく当然の帰結であって、メンテナンスする必要すら考えない人たち──がいる。

 

キリストを信じ、キリストにしか神の秩序の支配は望めない、と覚悟している人たちがいる。

 

<主体(チュチェ)>を信じていて、たとえ可能だとしても、<主体(チュチェ)>が己の欲望に、喜々として(!)したがうことが許される──という【完璧な社会主義体制】を望まない人たちもいる。

 

何も信じない【無神論】【無政府主義】の人たちもいるのだ。

 

どうして<完成した国家・社会>なるものを信じえようか?

 

要は、哲学的な理由、宗教的な理由、政治的な理由…いろいろな理由があるにしても【恒久的に調和された平和な社会】という考え、ときにはそんな【社会】自体の重みさえをどうしても認められない人たちが、無数に存在しているのだ。

 

原理主義者の主張

 

だが、原理主義者はこれらの人々のすべてに対し、こう主張する。
「神の千年王国は可能だ。神が地上に降り立つ瞬間がやってくるのだ。どんな機関・連盟であれ、どんな人間であれ、あなたがた自身を、汚濁と分裂にまみれた、この<不完全な世界>に生き続けられるように強いることはできない!」と。

 

【国家・社会は必要悪ではない】というのは、表現は違っても、原理主義者が胸にいだいている抜きがたい確信である。

 

<善き国家・社会>の「連帯」「絆」は可能であり、人はそれを確認し、受け入れる以外の選択肢は残されていない、というのが彼らの一番基本的な確信である。単純極まりないが、この確信抜きにはいかなる原理主義もあり得ない。

 

この「連帯」「絆」は、ファシズムのそれでもあり得るし、共産主義のそれでもありうる。


「神の主権」<ハキミヤ>に、生活のあらゆる面が掌握されているとイスラムが言うところの「全体的秩序」──<ニザム>──のそれでもありうる。

 

肝心な点は、なんらかの手段によってこの「連帯」「絆」が、人間の有限性、社会の欠陥を治癒してくれることである。

 

人類が積み重ねてきた科学的進歩、医療・戦争予防・外交といったような自力救済が望めるような宗教的ないし世俗的な国家・社会建設への賭け──まさしく賭け──にある。

 

原理主義者の一般的なウケはよくない。厳格で、呪詛に満ち、追及の手をゆるめない異端審問を想起させる。しかし、それは誤解である。

 

それどころか、彼らは楽観主義者である。希望と夢を胸にいだいているのだ。その予言と約束のなかには燦(きら)めくものがあり、彼らはみずからその伝道者を買ってでている。

 

彼らが物騒だというのなら、それはまさに彼らが人類に対して一時の方便として、へつらいや妥協の姿勢を見せるからであり、次のような確信をさらに強化することになるからである。

 

「<善き国家・社会>は存在する。私があなたに見せてあげよう。私に任せてくれさえすれば、<善き国家・社会>が現実のものとなるのだ。それとともに、人類が永年にわたって神に問いかけてきた苦悩も最終的に解決されるのだ」と。