細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『危険な純粋さ』:8「原理主義の十戒」:第二条・<原罪>を信じないこと

(底本:『危険な純粋さ』1996年12月、ベルナール=アンリ・レヴィ・著、立花英裕・訳 p.108-109)

これも、一般的に流布しているイメージにはあまり合わない。だが、ここにこそ彼らのドグマの核心がある。原理主義者たちは理解したのだ、この理屈を中心にしてすべてが関連づけられていくことを。

 

たしかにこの世には悪があり、それを【外科手術的に切除すること】が急務である。そのために【荒治療】に打って出ることも、原理主義者は辞さない。だからといってこの世界に存在する悪が【天地創造】以来のものであって、どうしてその悪が今まで続いてきたのか分からない、そもそもの原因がなんだったのか分からない、始源にこれらの悪の発端となったもともとの過失を求めるしかなく、それゆえにこの過失──つまり<原罪>──が哀れな人類に対して永遠に課されていくということにはならないのだ、と彼らは理解しているのだ。

 

想像していただきたい。永久に課されていく<罪>。長遠の時間を経ても、その<罪>から解放されないような<悪>!そんなものがこの世界に存在したままで、どうして<善き国家・社会>を建設することができようか?<原罪>というおとぎ話を信じながら、どうして完全無欠で無垢な<社会>、自らの眼の前に映っている夢の<社会>をまともに育むことができるだろうか?

 

原理主義者はすぐに理解したのだ、<原罪>の教条が人類の個々の記憶・心・身体に打ち込まれたクサビのようなものであることを。

 

彼らは知ってしまったのだ、一般的に正統とされているような立場が、この世界において<失われた純粋性>にいたる経路を封殺している、<原罪>の教条を排斥することから始めない限り、彼らの言う<善き国家・善き社会>が創設できないことを。

 

だからこそ、彼らの最初の第一歩は<クサビの切除>なのである。【罪を焼き亡ぼせ!】と彼らは言う。【神の呪いをうちのめせ!】これこそが、彼らの理想そのものから引き出される最初の攻撃なのだ。

 

それが即座に実行に移される場合もある。ユダヤ教・キリスト教的<原罪>と明確に袂(たもと)を分かつナチスや共産主義の場合である。訣別がそこまで目立たず、苦渋を伴っている場合もある。キリスト教の主だった異流義、またユダヤ教の異流義がそれである。

 

しかしながら、問題とされているのは、どのような場合でも、究極的には聖書の<原罪>の教条にかかっているのだ。フランク主義者にとってみれば、それはもう一つ別のモーゼの戒律である。黄金の子牛の光景(※49)を前にして石盤が打ち砕かれたために、だれ一人見ることのできなかった「最初の」戒律(※50)である。隠され忘れ去られたが、本来ならば人類全体に約束されていた戒律。カバラの研究者が言うところの「人類を<原罪>から解放する戒律」。

 

その特質は<原罪>への言及がないところにあると推測されるし、また、誰も明言はしない──サン・ジュスト、ロベスピエールのように──が、実際には<原罪>など気にかけていないと感じられる瞬間もある。

 

たとえば「幸福は新しい理念である」(※51)と原理主義者が口にするとき、その実際の意味は「新しい理念とは、しょせんは<原罪>のない世界である」と言わんとしているのだ。

 

最後にイスラムの例を挙げておこう。この宗教はたやすく原理主義に傾く傾向がある。今日、数ある原理主義の中でも脅威の筆頭にくるのは、聖書に依拠している三つの宗教の中で、<原罪>という概念にそもそもどんな地位も与えていない唯一の宗教にほかならないからではないか。

 

宗教・無宗教を問わず、また神への信仰の有無を問わず、原理主義者たちはつねに宗教史に関与してきたし、宗教史のなかで言えば堕落の教条にかかわってきた。要するに、自分たちを<罪・穢れのない存在>とみなすところにこそ、彼らは大きな脅威となり得るのである。最大事の懸念である。「清められた・穢れが払われた」というとき、彼らはまずなによりも「<原罪>から清められた」と解釈しているのだ。

 

(※49)モーゼが神に会見するために山にこもっているあいだに、留守を守っていたアロンが鋳造させた黄金の子牛のこと(『出エジプト記』第32章)。この偶像崇拝禁止の物語は、民主主義における主権統合の象徴という問題にもつながる。

(※50)山を降りてきたモーゼは、黄金の子牛と、その周りで歌い踊っている民を見て怒り、神から受け取ってきた「あかしの板」、つまり最初の戒律を砕いた。モーゼは神の怒りをなだめるため、民に兄弟・隣人を殺すように命じたあと(三千人の犠牲者が出た、とされる)、ふたたび山に登り、新しい石の板を神から授かった。そこに掘られた神の文字が後世に遺された「モーゼの十戒」である。

(※51)サン・ジュストの有名な言葉。