細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『危険な純粋さ』:8「原理主義の十戒」:第三条・<原罪否定>を下地にした【エデンの園】【夜明け前の時代】への回帰

(底本:『危険な純粋さ』1996年12月、ベルナール=アンリ・レヴィ・著、立花英裕・訳 p.110-111)

第二条の<原罪否定>は不可避的に、魅惑に満ちた<原始への希求>へとつながっていく。歴史の変遷とともに穢されてきた【純真無垢な原始】というシナリオ、まもなく暗転しようとする光明に溢れた【夜明け】という空想である。

 

ここでも、物事を悲観的に観察する方向へといざなうのが聖書である。その預言者たちが、【エデンの園】【夜明け前の時代】──律法や、神との契約が説示される以前の時代──を描くとき、風景は荒廃し、人類は己の欲望や、殺人衝動にさいなまされている。

 

泉という泉には毒が注がれ、河川という河川にはウジ虫がわき、人間は<神>の存在を忘れて頑なになっている。

 

ところが、原理主義者たちは、【原罪】の教条を克服してしまったのだ。もはやそんな【原罪】に囚われ、腐敗した世界の虚像を信じる必要はない。歴史を経て古代ローマの時代から変遷してきたユダヤ教・キリスト教の正統のように、【エデンの園】【夜明け前の世界】を想像することを控えるどころか、よろこんでそこに浸るのだ。永い間・歪曲されてきた【夜明け前の世界】の光景が、原理主義者たちの目には、理想そのものに見えるのだ。【夜明け前の世界】を思い描くことに時間を費やし、宗教的情熱を注ぎこむのである。

 

【世界の夜明け】。これは【エデンの園】から<追放>された人類、という聖書の古典的な教条である。赤い原理主義者に見られるように【原始時代】の、国家・政府が存在しない世界、人間同士が互いに助け合う【原始共産制】への空想という形をとる場合もある。人類の原始時代。これは進化論における【人類の発祥】をめぐる戯れ言に過ぎない。たいていはコーカサス地方か、インド亜大陸、さもなくばインド・ヨーロッパ語族のどこかの【故郷】で、人類が発祥した、ということに設定されているようだ。むしろ、褐色の原理主義者に属する<東洋学>(※注記52)的テーマでもある。

 

【世界最初の言語】はアダムの時代の言語が保っていたはずの純粋さについての果てしない思索である。【世界の夜明け前の時代】にはどのような言語が話されていたのか、どのような語、どのような創作、どのような【原始】の氏族名が?いったい<言葉と事象>が不一致となってしまった悲劇はいつからなのか?それとも逆に、<言葉と事象>の一致・不一致は、同じ時代・同じ世界の中で、一方は一致し、また一方は不一致であった、という【言葉の聖・俗の違い】はすでに存在していたのか?

 

そして、あの人間、そうあの地上初の人間、あの楽園の言語を話す者は──とフィヒテは問うのだ──ひょっとしたら、すでに【アーリア人種としての言語】を話していたのではないか、彼と【楽園の言語】の関係はすでにそういうものであったのだ──と。

 

他の者が問う──アラビア語とペルシャ語の混合言語を話していたのではないだろうか?それが判明しさえすれば、イラン精神革命の正当性が一段と強固になるのだが──と。

 

こうした説は、どれをとっても正気の沙汰ではないこと、そのことは今ここでは問題にしない。本質は、<危険な純粋さ>が例外なく、<アダミスム>(※注記53)なり、<東洋学>、あるいはもっと古典的なユートピア思想を媒介にして、原始時代に存在した世界最初の、純真無垢な【楽園】という妄想に囚われていることである。

 

注記52:ここでは特にシュレーゲル兄弟によって基礎づけられたインド・ヨーロッパ語族の研究や、古代インド学を指す。『フランス・イデオロギー』第二部参照。

注記53:裸体生活を重んじ、結婚に反対した異端。