細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『寿量品談義』:代々付属の事(日寛上人ご指南)

(底本:山喜房仏書林版『富士宗学要集』第十巻)

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代々付属の事

 

次に当寺のことは富士山・白蓮阿闍梨日興上人の開基・大石寺の末派なり。富士とは大日本国・東海道十五ヶ国の内、駿河国富士郡の山なり。ゆへに富士山といふ、根本の名をば大日蓮華山といふなり。これすなはち山の頂き、八葉の白蓮花に似たるゆへなり。『三国伝』12の終、往ひて見よ。また、『陰長記・下』-『学集』云云。また、天照大神をば日の神ともいふなり。教主釈尊をば日種とも恵日とも名づけたてまつるなり。

 

国をば大日本国、処は大日蓮花山。宗祖は日蓮大聖人、所弘の法体、本門寿量の妙法と、すなはち日天子のごときなり。

 

薬王品にいはく「又如日天子、能除諸闇、此経亦復如是」已上。

『玄』1-23にいはく、「日、星月を映奮し現ぜざらしむ、法華の迹を払って方便を除くゆへ」已上。御書24-11にいはく「日蓮がいはく迹門を月に譬へ、本門を日に譬ふるか」已上。

 

しかれば所弘の法体は本門寿量の妙法、如日天子の大法なり。能説の教主釈尊は日種なり、能弘の人は日蓮大聖人、守護の神明は日の神、国は大日本国、処は大日蓮華山なり。かくのごとく不思議に自然法爾・函蓋相応すること、意をもって推すべきなり。

 

次に日興上人のこと。つぶさには御伝別紙の如し。六老の中の第三なり。二ケの相承を受く。ある者、問ふて云く、何ぞ第三の弟子に附属し玉ふや。答ふ、既に付属決定なり。その器に堪えたるゆへなり。

 

あらあら、例証の一・二を伺わん。

帝堯の太子に丹朱と云ふあり、而るに位を譲らず。瞽叟と云へる民の子に重華と云ひし者を尋ね出して位を譲り玉へり、即ち舜王是れなり。又、舜の太子に商均と云へるあり、又・位を譲らず、夏の文命に位を譲る、夏の禹王是れなり。『書註』3-11、12。『三国伝』7-5丁、11丁。其の外、云云。

 

御書19-57に
「但し不孝の者は父母のあとをつがず。堯王には丹朱と云ふ太子、舜王には商均と申す王子あり。二人とも不孝の者なれば父に捨てられ現身に民となる。重華と夏の禹とは共に民の子なり。孝養の意、深くありしかば堯舜二人の王、召して位を譲りたまひき」已上。

 

世間の賢王すらかくのごとく、その賢を愛して王位に即位せしむ、いかにいはんや出世の法王、なんぞその次第に拘らんや。ゆへに興師の賢徳之れを推すべし。岩本能化・其の外、云云。

 

大石寺縁起のこと、また別紙に云云。目師へ御付属のこと、云云。

しょせん、教主釈尊は迹化・他方の大菩薩等を押しとどめ、涌出品にして本化の菩薩を召し出(いだ)して、寿量品にこれを宣(の)べ、神力品においてまさしくこれを附属するなり。

 

御書8-20に云く
「せんずるところ、迹化・他方の大菩薩等に、我が内証の寿量品を以て授与すべからず、末法の始めは謗法の国、悪機なるがゆへにこれをとどめて地涌千界の大菩薩を召し、寿量品の肝心・妙法蓮華経の五字をもって、閻浮の衆生に授与せしめたまふなり」云云。

 

祖師、ここに寿量品の肝心・妙法蓮華経を弘めたまふに、三箇の秘法これあり。

御書9-11に云く
「問ふ、如来の滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまふ所の秘法、何物ぞや。答へていはく、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」已上。

 

祖師より興師へ御付属、またこれ三大秘法なり。興師より目師へ御付属もまたこれなり

しかれば興師、御付属を受けたまひて七ヶ年の間、身延に住持したまへり、しかるにかの波木井の謗法によりて富士の上野にいたりて大石寺を建立しここに住せり九ヶ年。重須に隠居したまひ、すなはち日目上人に御付属・これあり、御正筆今に在り。

 

目師より代々・今におひて、二十四代、「金口の相承」と申して一器の水を一器に泻すがごとく三大秘法を付属なされて大石寺にのみとどまれり。

 

未だ、時至らざる故に直ちに事の戒壇、之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即・戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。

 

しかれば祖師大聖人・日興上人、三大秘法を守護し御胸に隠し持(たも)ちたまひ、身延山に居住のときは、かの山は寂光土にも劣らず霊鷲山にもまさるべき道理なり。しかるにかの処、謗法の地となれば波木井に還(かへ)して立ちのきたまふ。

 

已後はただこれ、もとの山中なり。霊山にもあらず、寂光にもあらざるなり。

 

その三大秘法の住するところこそ何国にてもあれよ霊山会場・寂光の浄刹なるべし。古(いにし)への奈良の都は名のみにして、公郷・殿上人の朝勤なく、鎌倉もまた大小名の参勤もこれなきなり。法に依て人尊く、人に依て処尊きなり

 

『註朗詠』6-21、「古詩の緑草、いま麋鹿の苑(その)、花華定めて昔の管弦の家ならん」と。同『新古今集』春の歌に、「いそのかみ ふるき都をきてみれば 昔かざしし 花咲きにけり」と。

 

奈良の都は元明天王より光仁天王まで七代の都なり。桓武天王、延暦年中に此の平安城にうつされたり、云云。往ひて見よ。

 

御書22-28に云く
「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にて相伝し、日蓮が胸中の肉団に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定(しょぶつにゅうじょう)の処、舌の上は転法輪の処、喉(のんど)は誕生の処、口中は正覚の砌(みぎり)なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば争(いか)でか霊山浄土に劣るべき。法・妙なるが故に人貴し、人・貴き故に所貴しと申すはこれなり」已上。

 

もし強ひてしからずと云はば、宗祖已前の延山はいかん。