細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『危険な純粋さ』:8「原理主義の十戒」:第四条・<理想郷>=【手つかずの状態の自然】への回帰

(底本:『危険な純粋さ』1996年12月、ベルナール=アンリ・レヴィ・著、立花英裕・訳 p.111-112)
原理主義者たちは、<国家・社会>が回帰すべき<起源>を設定している。言うまでもなく【手つかずの状態の自然】である。原理主義者は【手つかずの自然状態】を、<失われた純粋さ>の理想郷にしてしまう傾向があるのだ。

 

フランス大革命も──サン・ジュストを筆頭として──この語【手つかずの状態の自然】を口ぐせにしていた。

 

ロシア人たちも──ソルジェニーツィンをはじめとして──お決まりのように、ソヴィエト連邦が成立する以前の、否、それどころかピョートル大帝以前の【善き資質・自然状態】に対し、何かと誓いを立てている。

 

ナチス・ドイツは【手つかずの状態の自然】を尊崇し、環境保護や動物保護の分野でもっとも進歩した法律を遺した。

 

カラジッチは、先に見たように、<都市化された地域>と<農業を基本とする地域>との対立、つまり人工都市に対する【手つかずの状態の自然】の戦いを推奨・推進している。

 

ポル・ポトも同様である。

 

その意味合いとするところに多少の違いがあるとするなら、森林を賛美するかどうかという点であり、ちょうどドルイド教の神話(※注記54)や、ユンガーの『反抗論』の場合のように、森が人間の原初の性格を再生する最適の空間とされているかどうかということだ。

 

また、宗教的な原理主義で言えば、核心はこの【手つかずの状態の自然】と【人工化された世界】とのボーダーラインがどこにあるのか、という問いである。

身体は【手つかずの状態の自然】の内側なのか、外側なのか?
身体といっても、どのような身体なのか?
いかなるタイプの欲望がそこに投入されるのか?
性欲といかなる関係にあるのか?

 

しかし、こう言ってよければ、ボーダーラインがどこに引かれるのかが決まってしまえば、聖職者の命令を遂行する行為そのものが、【手つかずの状態の自然】への絶対的な服従の証しとなるのである。

 

イスラムにとっては<献身>は身体の外側からの制限・制約にもとづくのではなく、個々人の意志の<自由な発露>、そして意志の内側に存在する【手つかずの状態の自然】からの<自由な発露>を意味する<ユセフ>に基づいているのだ。
「初源の自然に忠誠を誓い、最初の信者として顔をあげよ」と記述されている通りなのである。

 

もちろん、わたしは【手つかずの状態の自然】への愛情が、いつでもそのまま原理主義の刻印になる、というつもりはない。それに──ルック・フェリが示してくれたように──フランスにおける政治的な環境保護の議論は、この理想をめぐってさまざまなセクトが相い対立したままである。

 

だが、だからこそセクトが分裂しているという事実が雄弁に物語っているのだ。

 

一方に陣取っているのは、穏健で、実証的な環境保護を唱える者である。彼らは【自然】を神格化するのでもなければ、かけがえがないからという理由で現代の偶像崇拝の対象とするのでもなく、【自然】のコントロール、つまるところ、【自然】を手なづけることを提唱していた。

 

他方には、理想だけで突っ走る過激な者もいた。ジャン=マリー・ルペンを許容し、イスラエルの【好戦的】性格を非難するにあたって【純真無垢】を口実とするのである。彼らが【緑のクメール】とか【環境原理主義者】と呼ばれたのも、当然なのだ。

 

ここまで述べてきたことが、<狂信的な純粋さ>の第四条である。【手つかずの状態の自然】は<善>であり、<聖なる対象>なのである。【自然】にかかわる事柄が<善き国家・善き社会>と無関係であるはずがないのだ。

 

注記54:古代ケルト族の神話。ドルイド教を復活させようという動きが現代のフランスにも存在する。政治的にはネオ・ファシズムとつながりを持つ。