細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『国教選定の必要』(昭和十年五月・堀米泰栄師)

(底本:『日淳上人全集・上巻』p.98)

解題:

後の日蓮正宗・第六十五世御法主上人であられる、日淳上人猊下の、ご登座のはるか前の論文です。

 

この論文の中で、【危篤な状態】【危篤な時期】とあるのは、せんじつめるところ、日本が満蒙開拓という大義名分のもと、植民地政策の拡大にずるずると引きずり込まれていく中で、太平洋戦争に向けた日米の対立が深刻化してきたことにあります。

 

この掲載文は原文そのままではわかりにくいので表現を緩和してあります。

 

(解題ここまで)


内閣審議会ができて重要国策を俎上に載せる体制が整うことになった。世間的には、これについて受け入れるべき・受け入れざるべきの二論がある。けれども、私心を離れて国家の現状を察するとき、何人といへども、かくのごとき組織の設置が当然であると考えられるであろうと思ふ。

 

まったく今日の状態については、一切の国家機構がことごとく是正・更新されなければならなくなっている、と考えなければならない。そしてその更新は一部的・一時的に企図されるのではなくて、全般的・同時一体的になされなければならない

 

ここに国家の智慧ある者を集め、国民総動員の上に企画実行されねばならぬゆえんがある。

 

国民経済の上に農村部と都市部と、生産者と消費者と、資本家と労働者と、組合と組合との利害は衝突し尖鋭化してきて一方が立てば一方が倒れるといふ実に危篤な状態にある。

 

これらの問題について、共存共栄の道を講ずるは至難中の至難である。しかも、これをただ至難として放置しておくことはすでに許されなくなってきている。

 

人為的政策により、国家が莫大なる予算を投じ、国民の貧富等の格差を平均ならしめ、わずかに矛盾を抑へて表面を糊塗していくことは一時的には成果を得られもしようけれども、必ずや破綻を生ずるにいたる時がくる。国家としていつまでもかくのごとき政策を続けていくことはできるものではない。

 

やはり自力救済の道を講じ、国家を盤石の上に安んじなければならない。為政者の苦心の大なるところが察せられるのである。

 

わたしは経済のことに関してはぜんぜん門外漢であってとかく何かを言及することはできないが、世上の論議を通じてうかがふに、恐らく将来は自由主義・個人主義経済を排して国家統制経済への道をたどることになるであらう

 

もし、そうであるとしたら、かくのごとき国家機構の更新は実に容易ならぬと見なければならない。考へても考へても、実には行いがたきところといはなければならない。自由主義・個人主義経済は自然的人情に即して発達し来たったものであり、これを統制経済に移行させることはむしろ作為的である。この作為的なる更新にはいろいろと困難な問題があるのである

 

ただ、これを能くなし得る方途は、一切の国民が国家社会といふ観念に目覚め、犠牲的利他的の精神に住することが肝要である。その前提がなくして統制経済への移行を望むことはあたかも木によって魚を求むるがごとき結果になる。

 

ここに、かくのごとき経済体制の一大転換は、その先序として、国民思想の一大転換がなくてはならない。すなわち、国民思想を陶冶(とうや)してこれを受け入れ、理解させるの下地をつくらなければならぬ。現に今、帝国議会において重要法案が丸潰れになった。これは未だにこのことを実施できてをらぬからである。

 

これについては先づ、真正なる教法を立てて一大なる猛運動を起こすべきである。

 

この運動の指導となるべき教法は何によって求むるか。天下に教法は数多あれど、愚痴の衆生に僅かに安心を与えることのできるものはある。それは念仏とキリスト教と天理教とである。

 

五欲熾盛(しじょう)の悪人にその慾心を満足させることのできるものはある。それは真言と金光教とひとの道教団とである。

 

狂信的衆生を慰安するものもある。それは大本教である。

 

これらを取って、以てこの危篤な時期の指導精神として一国を託することができるであらうか?断じてそれはできない相談である。ただわが日蓮大聖人の教法あるのみである。これ自讃毀他ではない、教法の尊正の然らしむるが故である。

 

内閣審議会の第一問題は国教選定の問題であらねばならない。このことは困難であることはもちろんであるがこの困難を打開するとき、初めて危篤状態に前途が開けてくるヒットラーの偉業は宗教的情熱によって成されつつある由。それがヒットラーそのものが偶像であり、民族意識が偶像であっても