細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『日蓮正宗要義』(私釈) 第一章 日蓮大聖人の教義・第一節 五綱 第一項「教」- page.2

(底本:『日蓮正宗要義(改訂版)』平成11年12月19日改訂・日蓮正宗 宗務院・発行)

第一項 「教」

「教」とは天台大師が『法華玄義』の一に
「聖人・下(しも)に被(こうむ)らしむるの言(ことば)」(『法華玄義』上─二九)
つまり、
「賢者・聖者が、大衆に向かって説かれた言葉」
と説明されています。

天台大師にとって、この「聖人」というのは「釈迦仏」のことで、その「言(ことば)」というのは、「釈迦仏が大衆に説法した言葉」、つまり、「釈迦仏が一代八十年にわたって大衆に説法した、仏の教え」のことです。

 

この「聖人」と「言」を、仏教に限らず、古今東西を通じて、広く一般的に見ていくと、
・「聖人」とは、あらゆる民族に現れる、「一般大衆に先立って、絶対的確信をもって真理・価値をつかみ、大衆を導いた指導者」
・「言」とはそのような「指導者」の説いた、宗教・哲学・生活法
ということができるでしょう。

 

国家・社会が歴史というものを生み出す以前から、人類は、そのときどきの環境に順応しつつ超克することをめざして発展してきました。
宗祖大聖人、『開目抄』にのたまわく
「三皇已前は父をしらず、人・皆、禽獣に同ず。五帝已後は父母をわきまへて孝をいたす」(平成新編 p.523)と。

 

つまり、人類史の初めの段階では、各民族・各部族とも、倫理・道徳といったものがありませんでした。「聖人」が現れて民族・部族を宗教・生活法によって教え導き、人類は万物の霊長としての特徴を備えるようになってきたのです。