細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『日蓮正宗要義』(私釈) 第一章 日蓮大聖人の教義・第一節 五綱 第一項「教」- page.3

(底本:『日蓮正宗要義(改訂版)』平成11年12月19日改訂・日蓮正宗 宗務院・発行)

ひと口に「教えの大綱を判断する」というとき、人類文化史上にあらわれ、さまざまな国家・地域において「大衆の精神面を導いてきたもの」のすべてをながめていこうとすると、人類文化史には実にさまざまな「教え」が存在することに気づきます。「教え」の大綱を判断していこうとすると、広くは宗教・哲学・倫理のそれぞれの歴史をひも解(と)かなければなりません。

 


しかしながら、もっとも大事なこととして「教え」が「教え」である「必要条件」は…

・適切な真理・価値への観察と洞察を説き明かした「道理」と、それを裏づける「実証」が一致すること

・「道理」を基本として、人間の思考・言動・行動の善悪を明らかにし、悪を止めて、正しい善を実践なさしめること

…にあります。そしてそれは「教え」が人間の一生の中に位置づけられたとき、最期臨終までに、大きな幸福につながっていく道としての「十分条件」を満たしているかどうかによって判断されるのです。

 

もし真理への観察が不備であれば、「教え」の内容・視野はともに偏狭と言わざるを得ませんし、価値への観察に欠陥があるときには「教え」を実践する人間に実益をもたらすことができません。

 

しかしながら、何が善で、何が悪であるかは、人類文化史を見わたすと、その時代ごとの違いにより、また国家・社会の違いにより、判定基準はさまざまです。

 

過去に善であったものが現在は悪であり、過去に悪であったものが現在は善となることもあります。

 

あるいは個人的基準と全体的基準、あるいは限定された集団の中での基準・社会の中の基準・国家の成員としての基準・人類の中での基準…等で善悪が異なる場合も見受けられるところです。

 

たとえば、国家間の戦争では、敵の兵士を殺傷することが善として賞されることがありますが、兵士を一個の生命体とするとその人の人生を終わらせる殺傷は「教え」の見地からは悪とされる場合もあります。

 

さらに、世間法(世俗的な社会常識)における善悪と、出世間法(宗教上の常識)としての善悪の違いもあります。

 

善悪を評価する、こういった基準はその「教え」によってさまざまです。もしこれらの「教え」を説く「指導者」を一堂に会させて、ある行為についての善悪を評価する「言(ことば)」を問うとすれば、ある者は「これこれこういう理由で【善】である」と主張し、ある者は「いや、これこれこういった理由で【悪】である」と主張する…喧々諤々(けんけんがくがく)の議論となってしまいます。


「教え」自体も、それによって判断される善悪も、その時代ごとにしたがうべき基準…すなわち、その時代に現れている道理の段階に基準を立てなければなりません。

 

一般的には、「善」とは道理に順ずることをいい、「悪」とは道理に背くことをいいます。「教え」で説く「道理」が不完全なのか・完全なのか、「道理」それ自体の高い・低い、広い・狭い、適切・不適切…という評価を判定していかなければなりません。実にこの必要性があればこそ、いろいろな「道理」・いろいろな「善悪」を説く、一切の「教え」自体を評価・判断することに意味があるのです。