細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

『十二因縁御書』 (康元元年 宗祖・御寿三十五歳)

(底本『平成新編 日蓮大聖人御書 上巻』)

およそ成仏とは、我が身を知って仏になるとは申すなり。我が身を知るとは、本仏なりと知るをいうなり。

一切衆生・螻蟻蚊虻(ろうぎもんもう)まで生を受くるほどのもの、身体は六根・六境・六識の十八界をもって組み立てたる身なり。この衆生は五陰和合の身なり。釈にいわく「五陰和合を名づけて衆生となす」と。この五陰は十二因縁なるゆえなり。

その十二因縁とは、無明・行・識・名色(みょうしき)・六入・触(そく)・受・愛・取・有・生・老死なり。

この十二因縁をば「三世両重の因果」という。

初・八・九、この三つは「煩悩」なり。第二・第十、この二つは「業(ごう)」なり。識・名色・六入・触・受・生・老死、この七つはみな「苦」なり。十二因縁とは煩悩・業・苦の三道なり。

無明・行の二つは過去の二因なり。識・名色・六入・触・受の五つは現在の五果なり。愛・取・有の三つは現在の三因なり。生・老死の二つは未来の両果なり。

身に三つとは殺・盗・淫なり。口に四つとは悪口・両舌・妄語・綺語なり。意に三つとは貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)なり。

この十二因縁を如法に信じ持てば即身成仏疑いなし。「この十二因縁より外に仏法なし即ちこれ法華経なり」と我が身を知るゆえなり。これを知らざるはすなわち謗法なり。「もし人あってこの経を信ぜずして毀謗(きぼう)せば、すなわち一切世間の仏種を断ぜん」とはこれなり。

我が身より外に別に仏なく、法華経なきなり。

縁起・非縁生は過去の二支、縁生・非縁起は未来の二支、縁起・縁生は中間の八支、非縁起・非縁生は無為の法なり。

十二時とは、無明は過去の諸結の時なり。行はこれ過去の諸行の時なり。識はこれ相続心および眷属の時なり。名色とはすでに生を受けて相続し、いまだ四種の色根を生ぜず、六入いまだ具せざる時なり。胎内の五位とは、一にはカララ、二にはアブドン、三にはヘイシ、四にはケンナン、五にはハラシャカ。

かくのごとく胎外に生じて人と成る、これを衆生とするなり。

決の六にいわく…
「頭の円(まど)かなるは天にかたどり、足の方なるは地にかたどる、身内のうつろなるはすなわちこれ虚空なり。
腹の温かきは春・夏にのっとり、背のかたきは秋・冬にのっとる。
四体は四時にのっとる。
大節の十二は十二月にのっとり、小節の三百六十は三百六十日にのっとる。
鼻の息の出入するは山沢渓谷の中の風にのっとり、口の息の出入は虚空の中の風にのっとり、眼は日月にのっとり開閉するは昼夜にのっとり、髪は星辰にのっとり、眉は北斗にのっとり、脈は江河にのっとり、骨は玉石にのっとり、肉は土地にのっとり、毛は叢林にのっとり、五臓は天にあっては五星にのっとり、地にあっては五岳にのっとる」と。

身の肉は土、骨の汁は水、血は火、皮は風、筋は木。

人の六根は、眼はものの色を見て、耳はものの声をきく、鼻はものの香をかぐ、舌は一切のものの味を知り、身は一切の寒・熱・麁・細にふれて苦痛するなり。この五根の功能は現に目に見え、知りやすし。

第六の意というものは、一切衆生われらが身の中に持ちながらすべてこれを知らざるなり。わが心さえ知らず見ず、いわんや人の上をや。当座の人々、知ろしめされんや。仏も心をば不思議と仰せられたり。いわんやその已下をや。

知らざるゆえは、この心は長・短・方・円の形を離れたり、青・黄・赤・白・黒の色にもあらず、言語道断・心行所滅の法なり。行住坐臥、語黙作々、因縁表白の喩えるべきにあらず。絵に書き作りだすべきものにもあらず、これを習学するものにもあらず、仏より記別せられたることもなし、神の託宣をうけたまわることもなし、親・師匠の手よりゆずられたることもなし。天よりふり、地より涌きたるものにもあらず。極大不思議のものなり。

かかる曲者(くせもの)なるを天台・妙楽二聖人の御釈、玄文にいわく…
「心は幻焔(げんえん)のごとし、ただ名字のみ有り、これを名づけて心となす。
たまたまそれ『有り』と言わんとすれば色質(しきぜつ)を見ず。たまたまそれ『無し』と言わんとすればまた慮想起こる。有・無をもって思度(したく)すべからざるがゆえに、ゆえに心を名づけて『妙』となす。
妙心のっとるべし、これを称して『法』となす。心法は因にあらず・果にあらず、能く理のごとく観ずればすなわち因果を弁う、これを『蓮華』と名づく。
一心、観を成ずるによって、また転じて余心を教う、これを名づけて『経』となす」と。

籤(せん)にいわく…
「『有り』と言わばすなわち一念すべて無し、いわんや十界の質像有らんや。『無し』と言わばすなわちまた
三千の慮想を起こす、いわんや一界の念慮をや。この有・無をもって思うべからざるがゆえに、すなわち一念の心、中道なること冷然(れいねん)なり。ゆえに知りぬ、心はこれ『妙』なり」と。

ここに知りぬ、我らが心は法華経なり、法華経は我らが心なりと。法華経を知らざるはすなわち我が身を知らざるなり。

いわゆる、身を知らざる者あり、移宅(わたしま)に妻を忘れたるこれなりと。されば仏に成らざる者あり、後世のために法華経を忘れたる者これなり。

ゆえに法華経を信ぜすそしる者は、諸仏に背き、諸天に背き、父母に背き、主・師に背き、山に背き、海に背き、日月に背き、一切の物に背くなり。

薬王の十喩、見合わすべし。

玄にいわく…
「眼・耳・鼻・舌、みなこれ寂静の門なり。これを離れて別に寂静の門なし」と。

籤(せん)にいわく…
「実相常住は天の甘露のごとくこれ不死の薬なり。今、妙法を釈して能く実相に通ず、ゆえに名づけて門となす」と。

寂静とは法華経なり。甘露とは法華経なり。

止の三にいわく…
「如来の無礙智慧の経巻は、つぶさに衆生の身中にあり。顚倒してこれを覆い、信ぜず見えざるなり」と。

つらつら物の心を案ずるに、一切衆生等の六根はことごとく法華経の体なりけりと、能く能く目を閉じ、心をしずめてつくづくおこころ得候え。

心が法華経の体ならんには、五根が法華の体にてあらんことは疑いなし。

心は王なり、五根は眷属なり。目に見、耳に聞くなどのことは、心が見聞かせするなり。五根の振る舞いは心が計らいなり。ものを見るも心が所作なれば眼も法華経なり。耳に聞くも心が計らいなれば、耳すなわち法華経なり。余の根、もってこれに同じ。

死ねば随って五根も去る。五根の当体は死ねどもその形は滅せず。しかれども心がなければ、いつか死人の物を見聞かんや。

譬えに合せん、法華をそしるもの、またかくのごとし。われらが心、法華にてあるを、しかも法華をそしって心を失するは六根そなわらざるなり。法華経の心を失して爾前経立つべきや。法華をそしり不信にては、爾前諸宗なんどの小乗・権法等は、心去りたる死骸にてこそあらめ云々。

今、法華宗は法華経という我らが心を捨てざれば、死骸六根したがって失せず。心すなわち五根、五根すなわち心なれば、心法成仏すれば色法ともに成仏す。色心不二にして、内外相い具せり云々。

釈にいわく…
「蓮華の八葉は彼の八葉を表わし、蓮台の唯一なるは八の一に帰するを表わす。一の中の八、八の中の一、常に一・常に八、唯だ一・唯だ八、一と成り八となる、前なく後なし」と。

止にいわく…
「それ一心に十法界を具す、介爾(けに)も心あればすなわち三千を具す」と。

弘にいわく…
「一身一念法界にあまねし」と。

義にいわく…
「三千と云うも、法界と云うも、法華経の異名なり」と。

経にいわく…
「閻浮提(えんぶだい)の内に広く流布せしむ」と。閻浮とは天地なり、父母なり。

またいわく…
「閻浮提の人の病の良薬」と。良薬は天地、父母なり。

かくのごとく我ら衆生が身は法華の体にてあるを、まったく法華経を他国異朝のものと思い、天地水火のようによそよそしく思いなすなり。かように目出たく貴き身を捨て終わりて、あまつさえそしりて悪処に落ちんは、浅ましく口惜しかるべきなり。

されば信じて我が身のいみじき様は、六の巻・随喜功徳品にあり。謗じて我が身の悪しき様は八の巻・普賢品にあり。

普賢経にいわく
「この大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり。この経を持つ者はすなわち仏身を持ちてすなわち仏事を行ずるなり」云々。

譬喩品にいわく
「もし人信ぜずしてこの経を毀謗せば、すなわち一切世間の仏種を断ぜん」と。

普賢経にいわく
「諸仏如来真実の法の子なり、汝・大乗を行じて法種を断ぜざれ」云々。

日蓮・花押