細草書林

「疑に三種あり、一には自らを疑ひ、二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」(日寛上人『寿量品談義』)

末法において仏果を得る条件

弥勒菩薩に「非算珠所知・非心力所及」(算珠の知るところにあらず・心力のおよぶところにあらず)という言葉がある。 この言葉は、『妙法蓮華経・如来寿量品第十六』の、釈迦仏と弥勒菩薩の問答の中で出て来る。 素直にその前後の書き下し文を書いてみると、こういう言葉だ。 (底本=大石寺版『新編・妙法蓮華経并開結』) まず、寿量品の説法が釈迦仏の三請で始まる。

そのときに佛、もろもろの菩薩、および一切の大衆に告げたまわく、 「もろもろの善男子、汝等(なんだち)、まさに如来の誠諦の語を信解すべし。」 また大衆に告げたまわく、 「汝等(なんだち)、まさに如来の誠諦の語を信解すべし。」 またまた、もろもろの大衆に告げたまわく、 「汝等(なんだち)、まさに如来の誠諦の語を信解すべし。」

この部分は『妙法蓮華経』の中で、もっともおごそかな雰囲気のイントロとなっている。 くだけた表現に直すならば、釈迦仏が

お前たちに、これから我が仏果を開示する。雑念・疑念を払って、ただ信心の二字で受け止めよ。

と、三回繰り返されるのだ。 これに、弥勒菩薩が願主として答える。

このときに菩薩大衆、弥勒をはじめと為して、合掌して佛にもうしてもうさく、 「世尊、ただ願わくばこれを説きたまえ。われらまさに佛の語を信受したてまつるべし。」 かくのごとく三たびもうしおわって、またもうさく、 「ただ願わくばこれを説きたまえ。われらまさに佛の語を信受したてまつるべし。」

くだけた表現に直すならば

世尊よ、私たちはただ信心の二字で、あなたの仏果開示を受けとめます。

と四回繰り返すのである。 このときの弥勒菩薩の心中はただ、一念信解に徹する決意であった、と拝察する。 このおごそかなイントロがあって、寿量品はようやく説法が始まる。

そのときに世尊、もろもろの菩薩の三たび請じて止まざることを知ろしめして、これに告げてのたまわく、 「汝等、あきらかにきけ、如来の秘密神通の力を。一切世間の天・人・および阿修羅、みな 『今の釈迦牟尼佛は、釈氏の宮を出でて、ガヤ城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり』とおもえり。しかるに善男子、我れ実に成佛してよりこのかた、無量無辺百千万億那由他劫なり」

くだけた表現に直すならば、

世尊は、弟子たちの機根が純熟し、まさしく仏果開示を受け切る準備がととのったことを知って、なお、いましめて言われた。 「お前たち、耳を済まし、頭の中から雑念・疑念を払って聴きなさい。これから我が仏果を説くこととする。」 そして、続けて言われる。 「世間的には、みな『お釈迦さまは、王城を出家し、森林の中で、瞑想によって、仏果を得たのだ』とおもっていることだろう。しかし、お前たちに真実を告げると、我が仏果証得は、すでに無量劫のかなたの過去世にあるのだ」

と説かれるのである。 ここで、いよいよ、本日のタイトルに関係する話がでてくる。「五百塵点劫」の説明である。

たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、たとい人あって、抹して微塵となして、東方、五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、すなわち一塵をくだし、かくのごとく東に行きてこの微塵を尽くさんがごとし。もろもろの善男子、こころにおいていかん。このもろもろの世界は、思惟し校計して、その数を知ることを得べしやいなや。

「三千大千世界」というのは今の天文学の実体におきかえて言うならば、銀河系などの星団・星雲のこと。 小千世界が太陽などの恒星を中心とする世界、中千世界がその小千世界をたばねる恒星の集団、そして大千世界が銀河系となる。 だから、くだけた表現に直すならば、

たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の銀河系を、粉微塵にして、東方、五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、一つぶのチリを落とす...このようにして、東に行きてこのチリが無くなるとする。お前たち、この数の銀河世界は、計算して、その数を知ることができると思うか?

となるだろうか。 弥勒菩薩をはじめとする、弟子たちは一斉に答える。

世尊、このもろもろの世界は、無量無辺にして、算珠の知るところにあらず、また心力のおよぶところにあらず。一切の声聞・辟支佛、無漏知をもってしても、思惟してその限数を知ることあたわじ。われら、阿惟越致地に住すれども、この事の中において、また達せざるところなり。世尊、かくのごときもろもろの世界は、無量無辺なり。

算珠というのはソロバンのこと、今で言うならコンピューターのこと。 くだけた表現に直すならば、

弥勒菩薩は、 「たとえ、コンピューターとして帝釈網を駆使しても、絶対に知り得ることはできません。」 と答えた。

ということだ。 釈迦仏が仏果を得てから、現在にいたるまでの時間をひと言で片づけてしまうのは(釈迦仏自身には)たやすいことだ。 だから、次の説法は、

そのときに佛、大菩薩衆に告げたまわく、 「もろもろの善男子、今、まさに分明に、汝等に宣語すべし。このもろもろの世界の、もしは微塵をおき、もしはおかざるところを、ことごとく以って塵となし、一塵を一劫とせん。我れ成佛してよりこのかた、またこれに過ぎたること、百千万億那由他阿僧祇劫なり」

となる。 くだけた表現に直すならば

佛は弟子たちに告げた。 「この銀河団の、微塵をおいたところ、もしはおいていないところを、ことごとく以ってまた粉末にし、一つぶの塵に一劫を乗算する。この時間が、仏果を得てから過ぎ去った時間、「五百塵点劫」である。」

想像すると分かるだろう。 弥勒菩薩にしてみれば、無限のように感じられる「五百塵点劫」は、釈迦仏にとっては、有限の時間なのである。 釈迦仏が「五百塵点劫」を説き、弥勒菩薩が「私には(頭では)分かりません。(頭では)理解できません。」と答える。 いわんや、釈迦仏の仏果の具体的な内容など、弥勒菩薩には知り得ようがない。 弥勒菩薩が帝釈網をもって計算するとも、かくのごとし。いかにいわんや、末法の素凡夫が、ノイマン型コンピューターをもって、計算をしようとするにおいておや。 ワトソン君にも、Siriたんにも、分からない魔法の言葉、それが仏果、すなわち「南無妙法蓮華経」なのである。

末法において仏果を得る条件

では、私たち、末法の素凡夫には、仏果は得られないのか? その疑問は、これが初心者の疑問ならば、答える段階ではない、と突き放すこともできる。 または、昔の私ならば、答える資格が無い、と謙譲することもできる。

 

大石寺第二祖・日興上人の時代の御本尊下附は次のような基準であった。 日興上人『富士一跡門徒存知事』にいわく 「一、御筆の本尊をもって形木に彫り、不信の輩に授与して軽賤するよし、諸方にその聞こえあり、いわゆる日向・日頂・日春等なり。日興の弟子分においては、 在家・出家の中に、あるいは身命を捨てあるいは疵(きず。刀傷のことか。)をこうむり、もしくはまた在所を追い放たれ、一分の信心ある輩に、かたじけなくも書写し奉り、これを授与する者なり。本尊人数等、また追放人等、頚切られ死をいたす人等」(『富士宗学要集・第一巻』57ページより引用)と。

 

つまり、日蓮大聖人の御心に叶う、不惜身命の僧侶・信徒にのみ、時の大石寺法主上人から、その者に常住本尊を下附し、以って仏果証得の資格証明と為す、と。

 

私も、「日興上人の弟子分」として、「一分の信心」に立ちたいと熱願する者である。